Technology Collection [1] |
 |
| [ダウンロード方法]
画像をクリックすると拡大します。拡大された画像を右クリックし、「名前をつけて保存」を選択します。 |
 |
|
| 1280x1024 MECA-01.jpg |
|
 |
| 1024×768 MECA-02.jpg |
|
 |
| 1024×768 MECA-03.jpg |
|
 |
| 1024×768 MECA-04.jpg |
|
|
娯楽としての麻雀の歴史
麻雀のルーツについては諸先人の研究により次のように考えられている。
中国において古代より遊ばれていた中国カード(紙札)ゲームのうちマーチャオ(馬弔)と呼ばれるカードゲームが、象牙・牛骨製の牌ゲームに変化し、誕生したもので、おおよそ19世紀後半(1860年前後)のこととされる。
このように麻雀の歴史は浅いが、その成立過程における文献は数少ない。僅かな文献の中で最も重要とされるのは清の時代(1616〜1912)に著された「清稗類鈔」(徐珂・仲珂、編)である。この中の「紙牌乃博」の項によると、中国カードは唐の時代(618〜907)の葉子戯に発祥したそうである。伝承によれば、中国での紙の発明は紀元105年の祭倫によると言われる。しかし祭倫の発明ということは単なる伝承であっても、紙の発明がその頃であったことは確かなようである。紙も発明された当時は貴重品であったであろうが、やがてさまざまな用途に用いられたことは間違いない。そこでカードゲームは唐以前から存在したと推論される。したがって葉子戯はその時代に存在した他種類のカードゲームも含めた総称とも考えられている。現代日本でトランプというと各種ゲームの用具でありトランプゲームの総称である。葉子戯もこのような総称であったと思われる。
葉子戯から時代が下って明(1368〜1662)の時代になると、馬弔がよく遊ばれるようになった。清稗類鈔の馬弔の項には以下のように記述されている。
「馬弔は明の天啓年間(1621〜1627)に南方で始まった。清の康煕帝の時代(1661〜1722)になると、士太夫が好んで遊んだ。牌の大きさは紙牌よりやや大きく、40枚で1セットで、スート(札の種類)は十萬貫、萬貫、索子、文銭の四種類である。それぞれ1〜9まであるが、十萬貫は二十萬貫から始まり、百萬貫、千萬貫、萬々貫までの11枚ある。萬々貫が一番価値がある。萬貫札には人の絵が描いてある。文銭で一番価値があるのは空湯(コンタン)で、次が枝花(チーホワ)である。次に一文(イーウェン)が価値があり、以下、2〜9の順である。空湯には人の絵が描いてある。だいたいは水滸伝の登場人物が多い。古くは馬棹脚(マーチャオチャオ)と言ったが、明の時代に脚(チャオ)を角(チャオ)とも訛った。また四門(スーメン)とも言った。これは馬が四本足であるためである。馬は足が1本欠けると走れない。そこで馬棹(マーチャオ)と言ったのである。この棹(チャオ)が弔(チャオ)となり馬弔となった。
しかし、馬弔が明代に始まったとする記述には疑義も呈されている。浅見了氏によれば「南宋の時代(1127〜1279)の詩に『打馬賦』という賦がある。『打馬』すなわち『馬弔を打つ』、または馬弔そのものであると思われる。そこでこの時代にはすでに馬弔が存在していた可能性があったのではないか。また同じ清稗類鈔の又麻雀(サーマーチャオ)の項には宋の儒学者、楊大年の著した『馬弔徑』には、『馬弔は宋代に始まった』という記述がある。そこで馬弔は少なくとも宋の時代には存在した可能性がある」と推測している。とはいえここでいう馬弔は、後代における馬弔とは種類/形態が異なるものであったと思われる
麻雀見聞記
日本に麻雀を紹介した最初の記として有名なのが夏目漱石の「満韓ところどころ」である。これは夏目漱石が支那(現在の中国)を歴訪した際の紀行文である。明治42年(1909)11月19日付け東京朝日新聞に掲載された第19節の概略を紹介してみる。
「たくさん並んでいる部屋の一つでは四人で博奕を打っていた。博奕の道具は頗る雅なものであった。厚みも大きさも将棋の飛車角くらいに当たる札を五六十枚程四人で分けて、それを色々に並べ替えて勝負を決していた。其の札は磨いた竹と薄い象牙とを背中合わせに接いだもので、其の象牙の方には色々の模様が彫刻してあった。此の模様の揃った札を何枚か並べて出すと勝ちになる様にも思われたが、要するに、竹と象牙がぱちぱち触れて鳴る許りで、何処が博奕なんだか、実は一向解らなかった。」
これが麻雀の描写かどうかは不明であるが、時代背景からもほぼ麻雀であろう。
日本初の麻雀牌
夏目漱石が日本に麻雀を紹介した明治42年と同年に日本上陸第1号の麻雀牌をもたらしたのは日本語と英語の教師として中国四川省に赴任していた名川彦作という人物である。名川は麻雀牌を携えて帰国後、樺太の大泊中学で同僚や生徒らに熱心に麻雀を教えた。しかし、まったく個人レベルであり地域も樺太ということもあって、麻雀流行の素地を作るには至らなかった。
この名川が持ち帰った本邦初といわれる麻雀牌は現在千葉県にある麻雀博物館の日本コーナーに展示されている。
日本人の活動
大正期になると大陸で麻雀を覚えた人々が日本で麻雀を普及するようになる。麻生雀仙という人(本名、賀来敏夫。日本麻雀草創期の先人)が東京赤坂で大正7年(1918)に少数愛好家のサロン的な麻雀クラブを開設している。また大正6年には日本語による初の麻雀の文献(肖閑生著「麻雀詳解」)が刊行された。同時に井上紅梅(本名、井上進。貿易商)が大正7年から大正10年にわたり、雑誌「支那風俗」を刊行。文中で麻雀のルールを詳しく紹介した。
このような時代、まず麻雀に飛びついたのは文人、そして上流階級の人々であった。
大正12年新宿区牛込神楽坂で営業したカフェー「プランタン」は店主(松山省三)が画家であり、妻の松井潤子も女優ということで、多くの画家、俳優、文人、墨客が出入りしていた。この店へ洋行帰りの市川猿之助と平岡権八郎が上海で買った麻雀牌を持ち込んだ。後に牌聖と謳われる林茂光(リンモコウ、本名は鈴木郭郎、雑貨貿易商)らが集い、麻雀を大いに楽しんだ。これを世にプランタン時代と称する。このとき指導を受けたメンバーが後に日本麻雀界の指導者となった。
参考:麻雀博物館その他
新ルール、リーチ・ドラ
昭和21年(1946)2月には東京、浅草で麻雀荘の営業が許可され、以後雀荘の開業が相次いだ。昭和22年には日本麻雀連盟も再建されたが、戦前からのアルシーアルルールは主流とはなり得ず、リーチ、ドラを取り入れた新ルールが大いに普及した。このような状況の中で昭和27年、報知新聞に天野大三が日本初のリーチルール「報知ルール」を発表した。天野は昭和30年代にリーチ麻雀団体「日本牌棋院」を設立し、以後その普及に多大な貢献をした。昭和40年代になると村石利夫により日本麻雀道連盟が設立され、リーチ・ドラは日本麻雀の特徴の一つとなった。
第二次麻雀ブーム
昭和44年(1969)から週刊大衆に阿佐田哲也の『麻雀放浪記』が連載され大好評を博した。同じ頃、日本テレビの人気番組、大橋巨泉司会の『11PM』が麻雀を放映してファンを沸かせた。ついで昭和47年(1972)には麻雀専門誌の月刊「近代麻雀」が竹書房から創刊された。
この頃から昭和60年(1985)頃までが第二次の麻雀全盛時代である。このブームは戦前のような爆発的なものではなかったが、その後も麻雀は愛好され、現在では漫画やゲーム、インターネットなど新しいメディアの力もあり、麻雀は大衆ゲームとして定着し広く親しまれている。
ルールの変遷
当初、中国式ルールで遊ばれていた麻雀は大正から昭和にかけて普及するにつれ、次第に日本式ルールへと変化していった。門前清加符の制定もその一つであるが、大きなルール変革はサイド精算の消滅と放銃一人払いである。
符底、アルシーアル
符底とは得点計算の基礎となる基本符である。中国古典麻雀では一翻しばりというルールは無いので平和(ピンフ)で上がった場合、基礎符が無いと得点がゼロになる。そこで上がり賃としての符底が存在した。
その頃の中国では10、20、40、60符底のルールがあったが、全体的に20符底が主流であり、我が国に伝わって主流となったのも20符であった。この基礎点を中国本来の術語で現すと「20符底(アルシーフーテー)」で、アルシーアル麻雀と呼ばれるようになった所以である。
サイド精算の消滅
サイド精算とは和了があった時、上がらなかった者同士が、互いの手の状況をもとに点数精算をするものである。
麻雀が伝来した当初はサイド精算も含めてルールはすべて中国式であったが、サイドは計算が面倒なこともあってしだいに変化し、昭和6年頃には消滅した。
放銃者一人払い
中国式ルールでは摸和、栄和にかかわらず三人払いであったが、昭和5年頃になると一般麻雀において栄和は放銃者払いというルールが急速に普及していった。この栄和放銃者一人払いというルールがなぜ日本で登場したのか定説はない。一説には花札の八八から、一説には他者の行為が自らの失点に繋がるのが日本人の国民性に合わなかったとも言われるが、実際のところは不明である。
この放銃者払いルールはサイド精算の消滅とともに麻雀の技法に極めて大きな変革をもたらした。すなわち放銃による失点はすべて自己責任となり、それが危険牌/手筋の検討を必要として、プレーヤーの独立性が高いゲームへと変貌したのである。
立直(リーチ)の誕生
中国麻雀には第一打牌による聴牌宣言(日本のダブルリーチ)が存在したが、ゲーム途中の聴牌宣言は存在しない。日本でなぜリーチのルールが誕生したのか定かではないが、昭和5〜6年のことと考えられている。
このリーチのルールは当初は主流ではなかったが戦後になって爆発的に広まった。このリーチルールを体系化し普及に尽力したのは先に述べたように天野大三であり、リーチ宣言牌を横向きに捨てるというのも氏の考案によるといわれている。
振り聴ルール
日本麻雀が中国麻雀と大きく異なるもう一つの点は振り聴ルールである。中国式では互いの捨て牌はその場で確認され、チー・ポン・ロンがなければ卓の中に放置され、浮屍牌となる。浮屍牌は誰にも帰属しないので、自分が捨てた牌でも出れば栄和できることになる。
日本でも当初は中国式であったが、やがて栄和放銃者払いルールが普及すると、いわゆる振り聴上がりは排斥されるようになった。すなわち以前に本人が捨てた牌で栄和されると放銃者は釈然としない。そこで放銃一人払いに少し遅れて振り聴ではあがれないというルールが登場した。こうなると、それまでのように各人が卓の上にばらばらに牌を捨てるわけにはいかず、各自の手牌の前にきちんと捨て牌するようになった。